2019年9月17日 (火)

北秋田郡大阿仁村発達史を読んで(4)

「北秋田郡大阿仁村発達史」を読んで(4) 

                                 大穂耕一郎

 「マタギ」の語源

 「大阿仁村発達史」では、「マタギ」の語源をアイヌ語の「マタウンパ」(冬に狩りをする人)ではないかと書いています。マタギの取材を続けていた作家・戸川幸夫も、この説をとっているそうです。「発達史」では他に、民俗学者・柳田国男の「二又になった棒」説にもふれています。

 他の説では、アイヌ語で「冬の人」「狩猟」を意味する「マタンギ」「マタンギトノ」が語源とする説、また、昔の東北地方の言葉で猟師を意味する「ヤマダチ」が変化した説、山々をまたぐように歩くから、などの説もあります。

 前回書きましたが、五世紀ごろ(古墳時代)には北海道からのアイヌの祖先が東北地方北部に住んでいて、古墳文化の人々と交流をしていましたので、私はアイヌ語語源説が有力だと思います。

 

 マタギの始祖

 マタギに伝わっている文書「山立根本の巻(やまだちこんぼんのまき)」、「山立由来の巻」(「発達史」では「山達由来之巻」としている)は、マタギの湯に併設されている「マタギ資料館」に実物と現代語の要約が展示されています。

 それによると、平安時代の九世紀、清和天皇の時代に、栃木県日光の男体山の神様・日光権現(化身の大蛇)と、群馬県赤城山の神様・赤木明神(化身の大ムカデ)が、中禅寺湖の領有をめぐって戦い、形勢不利になった日光権現が、ふもとに住んでいた猟師の万事万三郎(「発達史」では「盤次盤三郎」)に加勢を求め、万三郎が弓矢で大ムカデの両眼を射て、日光権現に勝利をもたらしました。

 この功績により、日光権現(清和天皇との説もある)から、全国の山で狩猟ができる免許状(山立御免)を授かったというもので、これが「日光派」と呼ばれるマタギの始まりです。

 この、日光権現と赤木明神の戦いの伝説は、現地の日光でも語られています。その戦いの場所が「戦場ヶ原」という名前になっています。しかし、日光では、日光権現を助けたのは万三郎ではなく、今の福島県から呼んできた猿丸という猟師で、ほうびに日光一帯の土地をもらったとされています。でも、メインのストーリーは同じなので、単なる伝説ではなく、元になった実話があるのではないかと思えてきます。

 

 万事万三郎が活躍したとされるのは、西暦850年ごろ。山立根本の巻が作られたのは、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時期、1193年ごろとされています。古い時代が、とても身近に感じられる物語ですね。 

北秋田郡大阿仁村発達史を読んで(3)

「北秋田郡大阿仁村発達史」を読んで(3) 

                              大穂耕一郎

 この連載の(1)で、東北地方の先住民について書きましたが、先日読んだ本に、最近の研究成果が載っていたので、今回はそれを紹介することにします。

 その本は、「アイヌと縄文」(2016年・ちくま新書)。著者の瀬川拓郎さんは北海道旭川市博物館の館長で、考古学、アイヌ史の研究者です。

 ヒトゲノムによるDNA分析

 まず、遺伝子による、現代の日本人とアイヌ、沖縄の人々、縄文人の関係です。21世紀になってから、「ヒトゲノムに基づくDNA分析」の手法が確立され、人類の進化と交流の過程が、くわしくつかめるようになりました。

 それによると、本土の日本人は、大陸から渡来した東アジア人、特に朝鮮半島の人々と、縄文人の遺伝子を合わせ持っているとのこと。これは弥生時代(稲作、土器、鉄器など)をもたらした大陸からの人びとが、日本に住んでいた縄文人と混血して、今の日本人になったということです。

 また、沖縄の人々は、本土の人々に比べて縄文人の要素が強く、アイヌの人びとは、さらに縄文人の要素が強いとのこと。

 東北地方北部の人びと、つまり私たちの多くは、本土の人々の中では、アイヌとではなく、島根県出雲地方の人びとと遺伝子的に近い特徴があるそうです。これまで、秋田弁と出雲弁が似ていると言われてきましたが、どうも具体的なつながりが古代にあったようですね。

 北東北のアイヌ語地名は?

 今から2千年ほど前の、弥生時代から古墳時代にかけて、弥生文化は日本海沿いに津軽地方まで北上しました。しかし北海道には達しませんでした。北海道の縄文人は、寒い気候もあって、稲作を受け入れず、ヒグマやアザラシなどの毛皮と、鉄器や管玉(くだたま)などの装身具を、本土との交易によって手に入れながら、狩猟や採集中心のくらしを続け、この人たちがアイヌとして独自の文化を作ってきたと考えられます。

 さて、それではなぜ、秋田、青森、岩手の各地にアイヌ語由来の地名があるのか、となります。

 弥生時代後期から、気候が寒冷化したため、東北北部では稲作ができなくなり、この地の人々は南へ移動して行きました。そして古墳時代の四世紀ころに、北海道の人々(この本では「続縄文人」と呼ぶ、アイヌの祖先)が、津軽海峡を越えて東北北部に南下し、東北地方南部(新潟-山形-仙台あたり)では、古墳文化を持つ人々と混在していたとされています。このころに、両者の交易が盛んになり、北海道には鉄器が流通し、大量の毛皮が古墳文化の人々に渡ったようです。毛皮をなめす石器は、東北地方の「続縄文人」の遺跡からも出土しており、北海道から来た人たちは、東北地方でも狩猟と毛皮生産を行っていたことが明らかになっています。

 五世紀になると、古墳文化の人々の北上がすすみ、「続縄文人」はしだいに北へ撤退し、六世紀には、東北北部からも「続縄文人」の遺跡は発見されていません。しかし、その後も津軽海峡を挟んでの交易が続いていたとのことです。

 さて、秋田、岩手、青森の北東北にアイヌ語地名がたくさんあることは、よく知られています。これは、古墳時代に北海道から「続縄文人」が東北地方へ南下してきた、その生活範囲とほぼ一致しています。五世紀に再び北上した古墳文化の人々が、すでにつけられていた地名をそのまま継承して字を当てはめたために、現代まで残されていると解釈できます。

 アイヌの祖先と 「えみし」と マタギ……重なっていた生活圏

 それでは、平安時代に朝廷と対峙した北東北の「蝦夷(えみし)」は何者か、ということになりますが、この「アイヌと縄文」には、そこまでの記述はありません。もともと「蝦夷」とは、古代以来、朝廷から遠い東の国に住む、朝廷の力が及ばない地域の人々を「東夷(とうい・あずまえびす)」と呼んでさげすんだことから来ています。

 ただ、八世紀の東北の「えみし」(「アテルイ」の時代)の生活圏が、古墳時代に北海道から南下していた「続縄文人」の生活圏と重なりますので、様々な影響は受けていると考えられます。アテルイを首領とした蝦夷が朝廷軍との十数年の戦いの末に降伏したのは、802年のことです。

 では、マタギはどうなのでしょうか。

 狩猟生活をしていた人々は全国にいたわけですが、「マタギ」と言われる人々が活動していた範囲は、やはり「続縄文人」が南下していた範囲に集中しています。「続縄文人」が狩猟生活をしていたわけですから、そのまま東北地方に残って、古墳文化の人々と交易、婚姻を重ねたかもしれませんし、あるいは、古墳文化の人々の中に、「続縄文人」に狩猟や毛皮の製品化などを学んだ人がいたとも考えられます。

 マタギの「通行手形」でもあった「山立根本の巻」には、清和天皇(在位は858年から876年)の命を受けて、日光権現に味方して赤城明神を負かしたと記されていて、時代的には、ゆったりとつながっている印象です。

 今年の1月まで秋田県立博物館で開かれていた特別展「キムンカムイとアイヌ」では、展示の最後に阿仁マタギのブースがあり、アイヌの狩猟道具や祈りとマタギのそれとがよく似ていると紹介されていました。

 もしかしたら、アイヌの祖先とマタギの祖先が、1600年前に阿仁の山をいっしょに歩いていたかもしれません。彼らの見た森吉山の空は、北海道につながっていたのでしょうか。

 

               (つづく)  

 

北秋田郡阿仁村発達史を読んで(2)

「北秋田郡大阿仁村発達史」を読んで(2) 

 「大阿仁」と「小阿仁」

 前号で、「阿仁」は「木立」の意味と書かれていることを紹介しました。「発達史」には、「大阿仁」と「小阿仁」の呼び名にまつわる伝説も紹介されています。

 能代市二ツ井町と三種町の境、上小阿仁村にも近い所に、房住山(ぼうじゅうざん)という、標高400mほどの山があり、このあたりに昔、天台宗の山岳道場があったとのこと。その住職が記したと言われる日記の中にある話。平安時代末期の保延(ほうえん)年間に、客人に語ったという話です。それによると……

 

 このあたりの長者の家に娘がいて、家の跡取りに婿を迎えたのですが、その後、長者に男子が生まれたため、娘の婿を「大兄」、あとから生まれた長男を「小兄」と呼びました。その後に跡目のことでいさかいが起きたので、本家と分家を決めるくじ引きを行い、長男(小兄)が本家となって、釜が沢(北秋田市釜の沢)に家を建て、婿(大兄)は米が沢(米内沢)に家を建てました。米内沢を流れる川筋は「大阿仁」、釜の沢(鎌の沢)は「小阿仁」となったのです。

 

……という話ですが、「発達史」には、「これは一つの伝説で、大兄、小兄が大阿仁、小阿仁であるというは、こじつけの説である」と書かれています。

 遡ると二筋に分かれる川筋には、対になった名前がよくあります。流量が同じくらいの場合は、森吉山荘から奥森吉高原にむかう「東又沢」「西又沢」など。流量に差があれば、例えば桂瀬から七日市に向かう舟木地区の、「大舟木沢」「小舟木沢」、また、比立内の奥、小岱倉沢の途中には、「大白沢」「小白沢」があります。

 今は「大阿仁川」ではなく「阿仁川」と呼ばれている川ですが、世界大百科事典(平凡社)によると、阿仁川は「もと大阿仁川とよばれた」と書かれています。

 さて、萱草と笑内の間にある内陸線の鉄橋は「大又川橋梁」という名前で、大阿仁小学校の校歌にも「瀬の音ゆかし 大又の」の一節があります。国土地理院の地図では、昭和30年代に「大又川」から「阿仁川」に変更されたそうなので、鉄道が比立内まで建設されているとき(完成は昭和38年)は、まだ、

「大又川」だったと思われます。「大又」に対する「小又」は、阿仁前田から四季美湖、太平湖に向かう小又川です。二つの流れが森吉山を囲むように流れて、阿仁川となり、米代川を経て日本海に注いでいます。 

2019年7月26日 (金)

北秋田郡大阿仁村発達史を読んで(1)

  「北秋田郡大阿仁村発達史」を読んで(1) 

   (北秋田市大阿仁公民館のニュースに連載をしている文章です。)

 大阿仁公民館の斎藤英昭館長より、自宅で見つかった「北秋田郡大阿仁村発達史」という書物のコピーをあずかりました。

 この書物は、1954年(昭和29年)に、当時の大阿仁仏教会が発行した郷土史の本で、松田広房という人の編著となっています。古代からの様々な分野のことが書かれていて、とても興味深い内容なので、その一部を、何回かに分けて紹介したいと思います。

 65年も前に書かれた書物なので、その後の研究によって、新たな史実や学説が出ている場合もあると思いますが、私がわかる範囲で解説することとします。 

 縄文、アイヌ、蝦夷、マタギ

 東北地方に昔住んでいた先住民族はアイヌだと言われていて、特に北東北にはアイヌ語由来の地名がたくさんあります。この書物では、古代に「蝦夷(えみし)」と呼ばれていたのはアイヌとは別の系統の「韃靼(だったん)人」(大陸のモンゴル系民族。タタール人)だと書いていますが、これには現在でも諸説があります。

北東北には、縄文時代の遺跡が多く、交流も盛んだったそうです。この縄文人とアイヌ民族との関係、また、蝦夷とアイヌの関係は、さまざまな説がありますが、最近の遺伝子解析では、アイヌの人たちが縄文人のDNAを多く残していることがわかっています。また、現在、世界遺産登録を目ざしている「北海道・北東北の縄文遺跡郡」は、ストーンサークルや遮光器土偶を作った独自のグループで、その範囲は、アイヌ語由来の地名が残る地域と重なります。

私は、昨年度の秋田県立博物館の企画展「キムンカムイとアイヌ」を見学しましたが、展示の最後に、阿仁マタギの展示コーナーがあり、アイヌとマタギがよく似た価値観や道具などを持っていることが示されていました。

 蝦夷は、平安時代初期(800年前後)にはアテルイを首領として、朝廷からの遠征軍と対峙しました。また、蝦夷の流れをくむ豪族が関わった前九年(1051年から)、後三年(1083年から)の合戦を経て、1189年に源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏は、蝦夷の血を受け継ぐ最後の地方政権でした。

 北東北の歴史は、縄文、アイヌ、蝦夷、朝廷、武士勢力が様々な形で絡み合う中で歩んできたと言えるでしょう。

 

 「発達史」によると、「阿仁」の地名は、アイヌ語の「アンニ」(木立)から来ているそうです。また、阿仁は古くは「榲淵(すぎぶち)」と言い、これもアイヌ語の「シリベツ」(山の中を流れる川)が語源で、今も名字にある「杉渕」はその名残だとのこと。これは初めて知りました。「阿仁」の文字が初めて現れたのは、1523年だそうです。

 「発達史」、読み進めるのが楽しみな書物です。         (つづく)        

2017年8月 1日 (火)

続・となりのツキノワグマ(2)  里にもクマがいる

 7月14日、北秋田市の大館能代空港近くにある伊勢堂岱遺跡で、爆竹を鳴らしてクマを追い払おうとしていた市の職員が、クマ(たぶん1歳半)に襲われて負傷するという事件がありました。

 伊勢堂岱遺跡は、空港関連の道路工事のときに発見された縄文時代の遺跡で、大きなストーンサークル(環状列石)がいくつもある、祭事場ではないかと言われている大きな遺跡で、大湯のストーンサークルや青森の三内丸山遺跡などとともに、世界遺産登録を目指している遺跡です。

 しかし昨年は遺跡の遊歩道にクマが出没して、一般公開が中止となりました。今年は大きな音を出す「爆音器」を導入して公開を始めたところ、6月に遺跡内でクマが目撃され、それ以降は一般公開を中止し、すでに予定が入っていた団体については、係員が同行して案内していました。

 7月14日は、東北各県の自治体職員の研修会が伊勢堂岱縄文館(資料館)て開かれていて、そのあとの現地視察の前に、念のためにと爆竹を使って、市の職員など4人が追い払い作業をしていたところ、藪からクマが突然現れて、少し離れた所にいた男性職員を襲いました。気がついた他の職員が大きな声を出して威嚇すると、クマは逃げたとのことです。襲われた職員は公民館担当の部署で、私の管理者にあたり、もちろん知っている人です。

 この事件でこの日の現地見学は中止され、その後も一般公開の見込みはなく、襲われた本人にとっても、市にとっても大きな痛手となりました。

 

 秋田県の高速道路や国道、県道で、クマの交通事故がたくさん起きています。クマが飛び出して車に当たり、車はバンパーなどが破損、クマは逃げて行くというのが普通のパターンです。でも、7月31日には秋田市近郊の秋田自動車道では、クマが死亡しています。

 事故の頻度からすると、相当数のクマが、山奥ではなく人里近くに来ていることがわかります。今年は特に多いようです。これは、一昨年の山の木の実が大豊作だったため、その冬に出産するメスグマが多く、ちょうど1歳半になって親離れしたばかりの子グマ(青少年グマ)が歩き回っているという指摘もあります。

 伊勢堂岱のあたりは、山というより丘、台地です。山の食べ物だけでなく、畑の作物や家畜の飼料、時には比内地鶏なども餌にしてしまう、困ったクマとして世代を重ねているかもしれません。そして、「里山のクマ」は、奥山のクマとは性格が違い、人間にとって危険なのは、「里山のクマ」のほうだという人もいます。

 北秋田市では今年6月に、北海道大学の大学院と、くまくま園(クマ牧場)でのクマの研究について協定を結びました。今後、クマの被害を防句手だてなどについても、知見を得られればありがたいと思います。Photo

2017年7月30日 (日)

続・となりのツキノワグマ(1)  クマの転入者

 6月下旬から、北秋田市の阿仁合地区に、ツキノワグマが住んでいます。いえ、住民票を持ってきたわけではないので、「棲んでいる」というのが正しいのですが。

 これまで、町のはずれを通るクマはいたのですが、今回は様相が違います。家々と商店、寺院、役所の庁舎、学校、診療所、高齢者施設、消防署、公民館などがある、旧・阿仁町の中心地に、クマがいるのです。

 阿仁合の町は、駅前の通りから国道のバイパスにかけて、起伏のある緩斜面に広がり、建物と建物の間には、たくさんの木々や灌木の茂みがあります。見通しが悪い裏通りには、クマが隠れる所がいくらでもあるのです。

 棲んでいるツキノワグマは、母グマと別れて置いて行かれたらしい1歳半のクマ。これがあちこちを動いています。別の、冬に生まれたばかりの子グマも目撃されています。

 まだ人身事故は起きていませんが、このまま棲み続けられては大変です。庭や畑の作物への被害も考えられます。

 市から猟友会に依頼して、7月16日に、クマの通り道となりそうな茂みに捕獲用の折を設置しましたが、2週間たっても、まだ捕まっていません。

 クマは冬籠りの間に子を産み、1歳半で子別れをします。今回も、最初は母子連れだったそうですが、母グマは阿仁合の町の中に子グマを置いて行ったようです。食べ物がたくさんあると思ったのでしょうか。まったくとんでもない親です。

 阿仁合では、クマの隠れ場所になる藪を減らそうと、刈り払い機で作業をするなど、対策をとっていますが、クマ本人が山に戻って行かない以上、檻で捕獲するしかありません。

 檻に入れるエサは、果物やはちみつですが、先日、一度折に入ったものの、入口の戸が落ちなくて、逃げられたそうです。これは、クマが小型のため、踏板やワイヤーに掛からなかったようです。

 2日前には、メインストリートの湊商店横で目撃されていることから、行動範囲は広がっているらしいとのこと。

 このクマが東京都内に出たら、機動隊も出動した大捜査線が張られ、テレビカメラの放列が敷かれ、見物人が殺到する騒ぎになるところですが、山間の町では、ニュースにもなりません。しかし、ここは紛れもなく、人間とクマが対峙する最前線なのです。

 昨年、FBと「くまのたいら企画のブログ」で、クマの話を書きましたが、今年も、少しまとめてみようと思います。

 (写真は阿仁合「在住」のクマ。佐藤稔さん撮影)

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2017年6月21日 (水)

鉄道会社は「愛」を得るための努力を

かつて鉄道は「かたい商売」と言われ、「安全」と「定時運行」が最大の使命とされていた。

 今のローカル鉄道は、もちろんそれだけでは路線の維持ができる状況ではないのだが、少し前までは、路線維持のための新しい取り組みに消極的な会社も目立っていた。

 「第三セクター会社」は、これまで全国で数多く設立されているが、中には、経営体質を問題にされた会社も結構ある。

 鉄道の場合は、国鉄の分割民営化に伴って、切り離されるローカル線の受け皿として、多くの第三セクター会社が設立された。地元自治体の首長が社長で、社員は、自治体からの出向、国鉄・JRからの出向・転籍、それに自社の新規採用者、という組み合わせが多かった。そのため、という言い方は当事者に失礼かもしれないが、30年前の役所と国鉄の体質をそのまま受け継ぎ、しかも、経営陣に鉄道経営手法の蓄積がない、という状況からの出発だった。

 もちろん第三セクター鉄道だけでなく、以前から民営のローカル鉄道の中にも、経営体質が問題にされていた会社がある。西日本のあるローカル鉄道会社が経営危機に陥ったとき、利用者から、「鉄道は必要だが、あの会社は要らない」と酷評された逸話がある。(この会社、現在は体質改善に成功している。)

 三セク鉄道は、開業当初は祝賀ムードで利用客も多かったが、その後は利用者数の減少と経営赤字が続き、存続問題が浮上した鉄道も多かった。

 この状況に、株主の県や地元自治体では、財政的な支援の枠組みを作る一方、それまで首長が兼任していた社長職を専任にしたり、民間から社長を公募するなど、それぞれの手法で経営体質の改善を図ってきた。

 また、沿線住民による支援団体の活動も、活発化してきた。ボランティアでの清掃、美化活動をはじめとして、支援団体主催のイベントは多くの団体が行っている。

特筆されるのは兵庫県の北条鉄道で、地域住民の寄付とボランティア作業によって、3年がかりで無人駅も含めた全駅に車いすにも対応できる新しいトイレを設置した。この過程で鉄道への愛着が高まり、乗客の増加にもつながっている。

 遠く離れた地で応援団が活動しているのは、秋田県の由利高原鉄道だ。鉄道ファンが中心になって、東京や大阪などでの鉄道イベントのときに販売員をしたり、写真展を開いたりするほか、由利高原鉄道の列車を貸切りにしてのイベントも定期的に実施している。

注目されるのは、この2社のケースは、鉄道会社からの提案がきっかけになったことだ。

ローカル鉄道は、地域に愛されてこそ、存在する意味がある。そして、地域の外からも愛が得られれば、存在価値はもっと大きくなる。2006年に千葉県の銚子電鉄が発信した「ぬれ煎餅買ってください。電車の修理代を稼がなくちゃいけないんです。」のSOSに、全国の人々がすぐに応援に乗り出したことは、まだ記憶に新しい。

 鉄道会社は、もちろん「かたい」部分はしっかり守りながら、人々の「愛」を得るための努力を、惜しんではいけないと思う。


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沿線の人たちとの協力が不可欠

 昨今は、たいへんな「鉄道ブーム」である。鉄道の旅を扱ったテレビ番組の数も多い。女性のファンも増えていて、すそ野が大きく広がった感がある。厳しい経営状況の中でも健闘しているローカル鉄道が目立ってきたのも、ファンの増加とリンクしているのかもしれない。ファンもそうだが、鉄道の旅をしたい観光客が増えていると思う。

 沿線人口の減少は、ローカル鉄道に共通の難題だが、多くの鉄道会社は、外から観光客を呼ぶことによって、そのマイナスを埋めようと取り組んでいる。

 その中心が、観光客向けの列車を走らせることだ。今、JR各社では、豪華観光列車を相次いでデビューさせているが、ここではローカル鉄道の観光列車を上げて行く。

 ローカル線用の観光列車としては、JR五能線の「リゾートしらかみ」が老舗だが、JRではほかに、八戸線にレストラン列車「東北エモーション」、「リゾートうみねこ」、津軽線・大湊線に「リゾートあすなろ」など、多くの観光列車を運行している。釜石線の「SL銀河」、磐越西線の「SLばんえつ物語」もこの仲間だ。

 資金力のあまりない民鉄や第三セクター鉄道も、それぞれの特徴を生かした車両を走らせている。津軽鉄道のストーブ列車、三陸鉄道のこたつ列車、秋田内陸縦貫鉄道の「お座敷列車」、そして会津鉄道は「お座トロ展望列車」というマルチな観光列車だ。

 ローカル鉄道の観光列車に必要なのは、沿線の自治体や観光団体、住民との連携である。多くのローカル鉄道では、様々な形で会社外の人たちの応援を得て、観光列車を盛り上げている。たとえば秋田内陸縦貫鉄道の「ごっつお玉手箱列車」は、お座敷列車を使って角館から阿仁合まで運行するが、発車すると途中の駅から郷土料理を少しずつ積み込んで、配膳して行く。懐石料理やレストランのコース料理の手法を動く列車を舞台に提供しているわけだ。

 料理を積み込むのは、近くの農家民宿のお母さんや、旅館の女将さんだ。配膳と接客も、農家のお母さんたちが担当する。乗客はローカル列車の旅と、地域の食文化に触れる旅を同時に味わうことができる。このような手法は他の鉄道でも取り入れられている。

 列車内だけでなく、駅や沿線風景をプロデュースしている鉄道もある。千葉県の、いすみ鉄道、小湊鉄道が有名だ。いすみ鉄道は、国鉄時代に使われていたディーゼルカーがシンボル的存在で、「昭和」をコンセプトに、沿線地域全体の雰囲気を作り出してきた。国鉄時代の急行型車両は、地元産の食材を使った「レストラン列車」としても人気が高い。小湊鉄道も、小さな駅の周辺に昔の里山の暮らしの風景を再現して、レトロなディーゼルカーやSL風の観光列車が人々を楽しませている。

 これらの風景は、鉄道会社だけで作り上げているのではない。ローカル鉄道とそれを取り巻く風景は、鉄道会社と沿線の人たちが協力して磨き上げることによって初めて、たくさんの人を呼ぶ「鉄道テーマパーク」に変身できるのである。100220

ローカル鉄道の奮闘

 「ローカル鉄道」という言葉からは、「田舎」、「本数が少ない」、「景色がいい」、「赤字」、「のんびり」など、多くの人がそのイメージを描くことができるだろう。

 この「ローカル鉄道」も、経営形態から見ると、大きく三つに分類される。

 まず、JRのローカル線。これは地図記号でも他の鉄道と区別されていることが多いので、わかりやすい。

 次に、民営鉄道。一般に「私鉄」と呼ばれている、JR以外の民間会社が以前から経営してきた鉄道で、首都圏にはたくさんある。しかし東北では、自動車交通の発達などで、戦後の高度成長期から小さな民営鉄道路線の廃止がすすみ、現在は青森県の津軽鉄道と弘南鉄道、福島県の福島交通の三社だけになっている。

2012年に廃止された青森県の十和田観光電鉄も民営鉄道だった。

 そして、第三セクターの鉄道会社が経営する鉄道。「三セク鉄道」と略されることもある。

 第三セクター鉄道は、さらに二種類に大別される。まず、新幹線開業によって並行在来線を引き受けた鉄道会社で、東北ではIGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道がある。そしてもう一種類は、国鉄からJRに移行するときに切り離された、「国鉄転換型」だ。岩手県の三陸鉄道、秋田県の秋田内陸縦貫鉄道と由利高原鉄道、山形県の山形鉄道、福島・宮城両県を走る阿武隈急行、福島県の会津鉄道である。(三セク転換後に開業した部分を持つ鉄道もある。)

 さて、国鉄転換型の三セク鉄道の経営収支は、どこも赤字である。しかし、国鉄時代よりも大幅に改善している。それでも「赤字」という言葉をマスコミは先に使ってしまう。前にも書いたが、道路の「赤字」はほとんど語られないのに、である。しかも、ニュースで紹介されるときに、「厳しい経営が続く〇〇鉄道」、「利用客の減少が続く△△線」などと、お決まりの枕詞で語られる場合も多い。

 しかし、「ローカル線はみんな同じ状況なのだろう」と思ってはいけない。利用客が回復しているローカル鉄道が全国に何社もあるのだ。

 2016年に刊行された『ローカル鉄道という希望』(田中輝美・河出書房新社)で紹介されているのだが、国土交通省の鉄道統計年報によると、ここ10年間の利用者数が上昇傾向なのは、茨城県のひたちなか海浜鉄道、福井県のえちぜん鉄道、兵庫県の北条鉄道など。これに、横ばい傾向の路線も含めると、約半数の路線が、利用者を増やすか維持している。

 このデータを見ると、「ローカル線はどこも厳しい」という「常識」を改める必要があるのではないか。そして、利用者が回復している鉄道は、地域ごとの条件の違いはあるものの、鉄道会社の意識転換や、工夫された取り組みがある。そうした先進事例を他の鉄道会社やその沿線自治体にも広く紹介して行くことによって、ローカル鉄道の全体的な底上げが可能になるだろう。

 ローカル鉄道を存続させるためには、通勤通学客の確保、地域との結びつき、観光客の誘致などの様々な取り組みが必要だ。そして今、多くの鉄道会社が、それぞれの地域的条件の中で奮闘していることは、もっと知られてもいいと思う。

 

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鉄道軌道整備法の改正を

Photo_2  昨年8月の台風10号で、岩手県岩泉町は甚大な被害を受けた。その爪痕がまだ残る小本川支流大川の流れの近くに、廃止されたJR岩泉線浅内駅の跡が残っている。駅舎とホーム、錆びたレール、そして蒸気機関車時代の給水塔が、ここに鉄道が通っていたことを教えてくれる。

 JR岩泉線は、国鉄時代に「特定地方交通線」に指定され、廃止対象路線となっていたが、並行する国道の未整備を理由に、JRの鉄道路線として引き継がれた。

 しかし2010年7月に、土砂崩れによる脱線事故が起き、さらに崩落の危険があるとしてJRは全線運休を続けて代行バスを走らせていたが、2014年3月末に、4年近い運休のまま、バス転換された。

 岩泉線の場合は、JRになってからの1990年代にも存廃問題が浮上していた、言わば「究極のローカル線」だったのだが、大きな災害が鉄道廃止の引き金になりうることを、ローカル線を抱える地域の自治体、住民に改めて認識させたできごとだった。

 岩泉線と接続しているJR山田線(盛岡―宮古間)も、2015年12月の土砂災害により、現在も上米内―川内間51.6kmが不通のままだ。この区間はようやく今年の秋に運転が再開される見通しである。

 さて、昨年末に、もう一つ大きなニュースが報じられた。不通になっているJR只見線の復旧に福島県、地元自治体が合意したというものだ。

 会津若松と新潟県の小出を結ぶ只見線は、2011年7月の豪雨によって会津坂下―小出(新潟県)間113.6kmが不通となった。復旧工事によって2012年10月までに、会津川口―只見間27.6kmを残して運転が再開された。しかし、只見川の鉄橋3本が流出するなど甚大な被害を受けたこの区間について、JRは85億円を超えるとした鉄道復旧費用と、利用客の少なさから、不通区間のバスによる輸送を提案したが、福島県と地元自治体は鉄道による復旧を求めていた。

 昨年12月26日、福島県と沿線7市町で構成する只見線復興推進会議検討会は、復旧費用の3分の一を負担することと、の維持費用の負担(上下分離方式)による鉄道復旧の方針を決定した。この3月にも、JRと復旧に向けた協議が始まるが、開通は早くても2020年とのことである。

 只見線の復旧がここまで膠着した要因は、震災後の鉄道復旧をめぐる動きとよく似ている。大規模災害であっても、現行の法律「鉄道軌道整備法」では、「該当する鉄道の鉄道事業者がその資力のみによっては当該災害復旧事業を施行することが著しく困難であると認めるとき」(第八条4)しか補助金を出す仕組みがない。しかし、これではJRのローカル線が大きな災害を受けると、また同じ議論が繰り返される。

そこで今、この鉄道軌道整備法を改正して、黒字の鉄道会社の鉄道路線についても、災害復旧費用の三分の一まで国庫補助ができるようにする動きが進んでいる。この法改正が早く実現してほしいと思う。

 

 

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