北秋田郡大阿仁村発達史を読んで(1)
「北秋田郡大阿仁村発達史」を読んで(1)
(北秋田市大阿仁公民館のニュースに連載をしている文章です。)
大阿仁公民館の斎藤英昭館長より、自宅で見つかった「北秋田郡大阿仁村発達史」という書物のコピーをあずかりました。
この書物は、1954年(昭和29年)に、当時の大阿仁仏教会が発行した郷土史の本で、松田広房という人の編著となっています。古代からの様々な分野のことが書かれていて、とても興味深い内容なので、その一部を、何回かに分けて紹介したいと思います。
65年も前に書かれた書物なので、その後の研究によって、新たな史実や学説が出ている場合もあると思いますが、私がわかる範囲で解説することとします。
縄文、アイヌ、蝦夷、マタギ
東北地方に昔住んでいた先住民族はアイヌだと言われていて、特に北東北にはアイヌ語由来の地名がたくさんあります。この書物では、古代に「蝦夷(えみし)」と呼ばれていたのはアイヌとは別の系統の「韃靼(だったん)人」(大陸のモンゴル系民族。タタール人)だと書いていますが、これには現在でも諸説があります。
北東北には、縄文時代の遺跡が多く、交流も盛んだったそうです。この縄文人とアイヌ民族との関係、また、蝦夷とアイヌの関係は、さまざまな説がありますが、最近の遺伝子解析では、アイヌの人たちが縄文人のDNAを多く残していることがわかっています。また、現在、世界遺産登録を目ざしている「北海道・北東北の縄文遺跡郡」は、ストーンサークルや遮光器土偶を作った独自のグループで、その範囲は、アイヌ語由来の地名が残る地域と重なります。
私は、昨年度の秋田県立博物館の企画展「キムンカムイとアイヌ」を見学しましたが、展示の最後に、阿仁マタギの展示コーナーがあり、アイヌとマタギがよく似た価値観や道具などを持っていることが示されていました。
蝦夷は、平安時代初期(800年前後)にはアテルイを首領として、朝廷からの遠征軍と対峙しました。また、蝦夷の流れをくむ豪族が関わった前九年(1051年から)、後三年(1083年から)の合戦を経て、1189年に源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏は、蝦夷の血を受け継ぐ最後の地方政権でした。
北東北の歴史は、縄文、アイヌ、蝦夷、朝廷、武士勢力が様々な形で絡み合う中で歩んできたと言えるでしょう。
「発達史」によると、「阿仁」の地名は、アイヌ語の「アンニ」(木立)から来ているそうです。また、阿仁は古くは「榲淵(すぎぶち)」と言い、これもアイヌ語の「シリベツ」(山の中を流れる川)が語源で、今も名字にある「杉渕」はその名残だとのこと。これは初めて知りました。「阿仁」の文字が初めて現れたのは、1523年だそうです。
「発達史」、読み進めるのが楽しみな書物です。 (つづく)
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