北秋田郡阿仁村発達史を読んで(2)
「北秋田郡大阿仁村発達史」を読んで(2)
「大阿仁」と「小阿仁」
前号で、「阿仁」は「木立」の意味と書かれていることを紹介しました。「発達史」には、「大阿仁」と「小阿仁」の呼び名にまつわる伝説も紹介されています。
能代市二ツ井町と三種町の境、上小阿仁村にも近い所に、房住山(ぼうじゅうざん)という、標高400mほどの山があり、このあたりに昔、天台宗の山岳道場があったとのこと。その住職が記したと言われる日記の中にある話。平安時代末期の保延(ほうえん)年間に、客人に語ったという話です。それによると……
このあたりの長者の家に娘がいて、家の跡取りに婿を迎えたのですが、その後、長者に男子が生まれたため、娘の婿を「大兄」、あとから生まれた長男を「小兄」と呼びました。その後に跡目のことでいさかいが起きたので、本家と分家を決めるくじ引きを行い、長男(小兄)が本家となって、釜が沢(北秋田市釜の沢)に家を建て、婿(大兄)は米が沢(米内沢)に家を建てました。米内沢を流れる川筋は「大阿仁」、釜の沢(鎌の沢)は「小阿仁」となったのです。
……という話ですが、「発達史」には、「これは一つの伝説で、大兄、小兄が大阿仁、小阿仁であるというは、こじつけの説である」と書かれています。
遡ると二筋に分かれる川筋には、対になった名前がよくあります。流量が同じくらいの場合は、森吉山荘から奥森吉高原にむかう「東又沢」「西又沢」など。流量に差があれば、例えば桂瀬から七日市に向かう舟木地区の、「大舟木沢」「小舟木沢」、また、比立内の奥、小岱倉沢の途中には、「大白沢」「小白沢」があります。
今は「大阿仁川」ではなく「阿仁川」と呼ばれている川ですが、世界大百科事典(平凡社)によると、阿仁川は「もと大阿仁川とよばれた」と書かれています。
さて、萱草と笑内の間にある内陸線の鉄橋は「大又川橋梁」という名前で、大阿仁小学校の校歌にも「瀬の音ゆかし 大又の」の一節があります。国土地理院の地図では、昭和30年代に「大又川」から「阿仁川」に変更されたそうなので、鉄道が比立内まで建設されているとき(完成は昭和38年)は、まだ、
「大又川」だったと思われます。「大又」に対する「小又」は、阿仁前田から四季美湖、太平湖に向かう小又川です。二つの流れが森吉山を囲むように流れて、阿仁川となり、米代川を経て日本海に注いでいます。
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