北秋田郡大阿仁村発達史を読んで(4)
「北秋田郡大阿仁村発達史」を読んで(4)
大穂耕一郎
「マタギ」の語源
「大阿仁村発達史」では、「マタギ」の語源をアイヌ語の「マタウンパ」(冬に狩りをする人)ではないかと書いています。マタギの取材を続けていた作家・戸川幸夫も、この説をとっているそうです。「発達史」では他に、民俗学者・柳田国男の「二又になった棒」説にもふれています。
他の説では、アイヌ語で「冬の人」「狩猟」を意味する「マタンギ」「マタンギトノ」が語源とする説、また、昔の東北地方の言葉で猟師を意味する「ヤマダチ」が変化した説、山々をまたぐように歩くから、などの説もあります。
前回書きましたが、五世紀ごろ(古墳時代)には北海道からのアイヌの祖先が東北地方北部に住んでいて、古墳文化の人々と交流をしていましたので、私はアイヌ語語源説が有力だと思います。
マタギの始祖
マタギに伝わっている文書「山立根本の巻(やまだちこんぼんのまき)」、「山立由来の巻」(「発達史」では「山達由来之巻」としている)は、マタギの湯に併設されている「マタギ資料館」に実物と現代語の要約が展示されています。
それによると、平安時代の九世紀、清和天皇の時代に、栃木県日光の男体山の神様・日光権現(化身の大蛇)と、群馬県赤城山の神様・赤木明神(化身の大ムカデ)が、中禅寺湖の領有をめぐって戦い、形勢不利になった日光権現が、ふもとに住んでいた猟師の万事万三郎(「発達史」では「盤次盤三郎」)に加勢を求め、万三郎が弓矢で大ムカデの両眼を射て、日光権現に勝利をもたらしました。
この功績により、日光権現(清和天皇との説もある)から、全国の山で狩猟ができる免許状(山立御免)を授かったというもので、これが「日光派」と呼ばれるマタギの始まりです。
この、日光権現と赤木明神の戦いの伝説は、現地の日光でも語られています。その戦いの場所が「戦場ヶ原」という名前になっています。しかし、日光では、日光権現を助けたのは万三郎ではなく、今の福島県から呼んできた猿丸という猟師で、ほうびに日光一帯の土地をもらったとされています。でも、メインのストーリーは同じなので、単なる伝説ではなく、元になった実話があるのではないかと思えてきます。
万事万三郎が活躍したとされるのは、西暦850年ごろ。山立根本の巻が作られたのは、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時期、1193年ごろとされています。古い時代が、とても身近に感じられる物語ですね。
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