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2019年9月17日 (火)

北秋田郡大阿仁村発達史を読んで(3)

「北秋田郡大阿仁村発達史」を読んで(3) 

                              大穂耕一郎

 この連載の(1)で、東北地方の先住民について書きましたが、先日読んだ本に、最近の研究成果が載っていたので、今回はそれを紹介することにします。

 その本は、「アイヌと縄文」(2016年・ちくま新書)。著者の瀬川拓郎さんは北海道旭川市博物館の館長で、考古学、アイヌ史の研究者です。

 ヒトゲノムによるDNA分析

 まず、遺伝子による、現代の日本人とアイヌ、沖縄の人々、縄文人の関係です。21世紀になってから、「ヒトゲノムに基づくDNA分析」の手法が確立され、人類の進化と交流の過程が、くわしくつかめるようになりました。

 それによると、本土の日本人は、大陸から渡来した東アジア人、特に朝鮮半島の人々と、縄文人の遺伝子を合わせ持っているとのこと。これは弥生時代(稲作、土器、鉄器など)をもたらした大陸からの人びとが、日本に住んでいた縄文人と混血して、今の日本人になったということです。

 また、沖縄の人々は、本土の人々に比べて縄文人の要素が強く、アイヌの人びとは、さらに縄文人の要素が強いとのこと。

 東北地方北部の人びと、つまり私たちの多くは、本土の人々の中では、アイヌとではなく、島根県出雲地方の人びとと遺伝子的に近い特徴があるそうです。これまで、秋田弁と出雲弁が似ていると言われてきましたが、どうも具体的なつながりが古代にあったようですね。

 北東北のアイヌ語地名は?

 今から2千年ほど前の、弥生時代から古墳時代にかけて、弥生文化は日本海沿いに津軽地方まで北上しました。しかし北海道には達しませんでした。北海道の縄文人は、寒い気候もあって、稲作を受け入れず、ヒグマやアザラシなどの毛皮と、鉄器や管玉(くだたま)などの装身具を、本土との交易によって手に入れながら、狩猟や採集中心のくらしを続け、この人たちがアイヌとして独自の文化を作ってきたと考えられます。

 さて、それではなぜ、秋田、青森、岩手の各地にアイヌ語由来の地名があるのか、となります。

 弥生時代後期から、気候が寒冷化したため、東北北部では稲作ができなくなり、この地の人々は南へ移動して行きました。そして古墳時代の四世紀ころに、北海道の人々(この本では「続縄文人」と呼ぶ、アイヌの祖先)が、津軽海峡を越えて東北北部に南下し、東北地方南部(新潟-山形-仙台あたり)では、古墳文化を持つ人々と混在していたとされています。このころに、両者の交易が盛んになり、北海道には鉄器が流通し、大量の毛皮が古墳文化の人々に渡ったようです。毛皮をなめす石器は、東北地方の「続縄文人」の遺跡からも出土しており、北海道から来た人たちは、東北地方でも狩猟と毛皮生産を行っていたことが明らかになっています。

 五世紀になると、古墳文化の人々の北上がすすみ、「続縄文人」はしだいに北へ撤退し、六世紀には、東北北部からも「続縄文人」の遺跡は発見されていません。しかし、その後も津軽海峡を挟んでの交易が続いていたとのことです。

 さて、秋田、岩手、青森の北東北にアイヌ語地名がたくさんあることは、よく知られています。これは、古墳時代に北海道から「続縄文人」が東北地方へ南下してきた、その生活範囲とほぼ一致しています。五世紀に再び北上した古墳文化の人々が、すでにつけられていた地名をそのまま継承して字を当てはめたために、現代まで残されていると解釈できます。

 アイヌの祖先と 「えみし」と マタギ……重なっていた生活圏

 それでは、平安時代に朝廷と対峙した北東北の「蝦夷(えみし)」は何者か、ということになりますが、この「アイヌと縄文」には、そこまでの記述はありません。もともと「蝦夷」とは、古代以来、朝廷から遠い東の国に住む、朝廷の力が及ばない地域の人々を「東夷(とうい・あずまえびす)」と呼んでさげすんだことから来ています。

 ただ、八世紀の東北の「えみし」(「アテルイ」の時代)の生活圏が、古墳時代に北海道から南下していた「続縄文人」の生活圏と重なりますので、様々な影響は受けていると考えられます。アテルイを首領とした蝦夷が朝廷軍との十数年の戦いの末に降伏したのは、802年のことです。

 では、マタギはどうなのでしょうか。

 狩猟生活をしていた人々は全国にいたわけですが、「マタギ」と言われる人々が活動していた範囲は、やはり「続縄文人」が南下していた範囲に集中しています。「続縄文人」が狩猟生活をしていたわけですから、そのまま東北地方に残って、古墳文化の人々と交易、婚姻を重ねたかもしれませんし、あるいは、古墳文化の人々の中に、「続縄文人」に狩猟や毛皮の製品化などを学んだ人がいたとも考えられます。

 マタギの「通行手形」でもあった「山立根本の巻」には、清和天皇(在位は858年から876年)の命を受けて、日光権現に味方して赤城明神を負かしたと記されていて、時代的には、ゆったりとつながっている印象です。

 今年の1月まで秋田県立博物館で開かれていた特別展「キムンカムイとアイヌ」では、展示の最後に阿仁マタギのブースがあり、アイヌの狩猟道具や祈りとマタギのそれとがよく似ていると紹介されていました。

 もしかしたら、アイヌの祖先とマタギの祖先が、1600年前に阿仁の山をいっしょに歩いていたかもしれません。彼らの見た森吉山の空は、北海道につながっていたのでしょうか。

 

               (つづく)  

 

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